癌診療批判

ある国立大学病院で、癌を狙い打つため重粒子線照射装置を導入したとか、するとか。設置費が125億円、治療費が300万円とか。維持費だって億の単位になるはず。

四畳半で薙刀を振り回す、と言う。ハモの小骨をとるのに出刃包丁は使わない。いっそ宇宙戦艦ヤマトに搭載したら。いかにも近未来的ではないか。まァ、物理屋の高価なおもちゃだわ。

当院の場合。初回こそ午後いっぱいかかるし補助剤なんぞもあることから、4、5万円ほどにはなるか。次回から13.000円程度。月々6万円ぐらいだろう。しかも、2〜4ヵ月もすれば、ほぼ半額。

一方、市中はどうだろう。免疫治療あるいはこれに類したことを謳うところは少なくない。が、米原万里さんがある雑誌に書き遺した「遺書」によると、毎回20数万〜30万も請求しておきながら、結局は裏切られたという。そして彼女は逝った。また、あからさまに「金だしなさい。金さえ出せば、いくらでも良くしてやる」と言ってのける手合いがいるそうだ。もっともらしく本まで出版してさ。

利用する側も悪いよ。治療費が高額だと、「こんなに高いんだから、きっとよく効くに違いない」となるんだね。バカだよ。

余計な手を加える必要はまったくないんで、ひたすら患者自身の免疫力を高めて、これが効果的に作用する条件を整えてやればよい。極めて単純な作業なのだ。だから、手術・抗がん剤・放射線による「三大治療」は、原則として避けるべきなのだ。いずれも頼みの綱の免疫力を徹底的に弱め、結局、患者自身がともに斃れてしまう。

確かに生還者も少なくはない。これは、いっとき免疫力を犠牲にしても何とか生き延びたとき、生死の狭間を切り抜けたという自信、ものの考え方・価値観が大きく変わって、生かされたことへの感謝の念が生まれたことによるのだ。こうした心の在り方は交感神経の緊張を解き、副交感神経を励起する。このように自律神経のバランスを正すことで免疫力が高まるのであって、当院が患者への療養指針の第一項に心の在り方を掲げる所以である。

話を三大治療に戻そう。手術をして腫瘍を切除した、悪いものを取り除いたからもう安心、とはならないのだ、決して。どこまで切り取るべきかは、事実上、はっきりとは分からない。仮に、きわめて限局され境界の明らかな腫瘍をそっくり取り除けたたしても、「発がんし易い」状況はそのまま。問題は決して片付いてはいないのだ。この点を見落としてはならない。

手術が必要な場合は確かにある。腸管・血管・リンパ管・中枢神経、そして胆管・尿路に有意な閉塞・圧迫がある場合だ。しかしこれは、「合併症」に対する処置であって癌腫瘍の除去を主目的としてはならない。組織損傷を最小限に、血流・リンパ流は最大限に温存するものでなくてはならない。

重症貧血その他の合併症に対する処置も最小限の時間で手早くすませ、患者を開放してほしい。すぐにこちらの治療を再開できるし、並行実施も必要になる。癌だから、と早々に諦め、いい加減な対応をされては困る。勝手に見切りをつけて欲しくはないのだ。助けられるのに、と口惜しい思いをしたことも度々。

抗がん剤・ホルモン剤による治療も良い選択ではない。深刻な副作用・合併症による患者の苦痛は著しい。しかも重大な「医原病」を招く恐れがあるのだ。月経困難症のホルモン治療から乳がん、甲状腺がん術後の甲状腺ホルモン補充による発がん連鎖。

放射線治療も然り。禍根を残す。悪性リンパ腫による頸部照射からの喉頭がん、乳癌術後の照射で肺癌という例を経験している。

このように、正統とされている三大治療も、もはや正義とは言えないのだ。総合的効果、患者・家族の苦痛と労苦、経済効率のいずれを見ても、よい評価は与えられない。

癌性疼痛は耐え難い苦痛であるし、強いストレスになる。勢い、鎮痛処置が必要になる。鎮痛剤は免疫力を大きく損なうのだが、止むを得ず妥協することになる。このとき、非ステロイド系消炎鎮痛剤など化学合成薬を使ってはならない。生薬ならば取り戻しが出来るのだ。がん治療が奏効するに連れ自ずと使用量が減って、ついには離脱するようになる。しかし現実には、治療技術の見せどころとばかりにあれこれ併用したり、意識障害や呼吸停止を招くほどの量を持続注入して死なせたり。安らかな終焉を迎えさせるだけがホスピスの役割ではあるまいに。手を尽くすなら、まだまだ助けられるのだ。診断と治療後の観察・管理についても大いに問題あり。例えば、画像上に視認下限界の径3mmの異常陰影を見つけて癌だ、癌の疑いあり、とするのはいいとして、これが見えなければ、癌なんてありませんよ、となる。おかしいではないか。ビッグバンじゃあるまいし、何もないところから、次の瞬間、突如として腫瘍が出現するのかね。要するに、腫瘍塊として認識しなければ診断できないところが診断能力の限界なのだ。しかも、確定までは経験則に頼り、病理診断を待たねばならない。えらく時間がかかるのだ。

しかし、癌の「活性」を捉えるなら、極めて早期の微小な、言うなれば気配だけの段階で診断できるのだ。これなら癌治療だなどと気色張らずとも、生活様態と環境に注意を促すだけで事足りる。そして、これが癌予防の要諦なのだ。

診断にも経過観察にも放射線検査が活躍する。しかし、単純撮影1枚であっても免疫力は大幅に下がる。多くは一過性だが、度重なると集積効果は無視できない。しかも装置・技術の発達から作業が簡単になり、IT化による記録・管理の容易さもあって、検査指示が気軽に過ぎはしないか。画像化が単に医師の自己満足に終わり、診療上の利益が薄い場合もありはしないか。患者の危険と損失は大きい。

そもそも画像上で再発・再燃を発見したり、発症してから認識するような観察・管理ではお粗末に過ぎる。何より免疫レベルを高く維持し、これを低下させる要因を日常生活から除去するよう指導して、有意な変化があったなら、その原因を探り出す、これが長期管理の真髄である。放射線・内視鏡・病理の検査そのものが患者にはストレスであることを肝に銘ずべし。得られる情報が他に勝って必要な場合にのみ許されるだろう。

入院患者を電動ベッドに収容するなど、以ての外。電動マッサージ椅子とか「何とかトロン」とか温熱治療器とか、その他どうかと思う医療器械の類が出回っている。

癌を告知するのはいい。もはや死病ではないし、患者自身に療養の主体性を持たせる上でも必要である。むしろ、知らされていないことへの疑心暗鬼が有害だ。しかし、ただ告げればいいのではないのだ。

一体全体、何の根拠で余命が二カ月だの三ヵ月だの言いきれるのか。こんなことを言われたなら、患者も家族もただただ慌てふためき、冷静になって考え判断する暇はない。しかも、人生の機微に疎い、青いケツに卵の殻をくっ付けてるようなのが、ただ言えばいいとはかりに言い放つ。

このタイプの癌は、化学療法でも放射線でも助かった例は無い。告げられた患者はどうなる。少しは同情しろよ! 医者のムンテラひとつで患者を殺すこともあるんだ。もっとも、よい手立てを持ち得ない己を恥じ、冷徹さを装って隠しているのなら同情もしてやろう。

再発・再燃を長期にわたって監視し、さらに発癌を防止するには免疫レベルを高く保つことが必要であることはすでに述べた。この免疫力を損なう大きな要因の一つが電磁波である。これを我々の五感で捉えることはできないから気付かずにいるが、生活空間の電磁波汚染は深刻だ。目に見える電化製品は勿論だが、目に触れることの少ない電源線や電波を忘れてはならない。自宅の間どり・家屋構造・施工方法、さらに職場環境に目配りが必要になる。また、家庭・地域・職場での人間関係による緊張、雇用不安に経済的な生活不安、さらに社会的な不安定さなどがストレスになっていることも考慮しなくてはならない。昨今の世の中を見ていると、二人に一人が癌患者というのもむべなるかな、である。癌患者が増えて当然の社会を、我々自身が作って来たのだ。このように、病気の背景にある社会病理を忘れてはならない。

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